教会学校教師の学び

どの教会にも、子供たちのためのプログラムを用意していると思います。
子どもの教会とか、教会学校とかよばれているものです。
これには、教会の信徒も方々も加わって、こどもたちへの伝道を行います。
そう、社会と同じく、将来の教会を背負っていく世代への伝道です。

多くの教会は、月1回、教会学校教師会のように、そのための会議を開いていると思います。
ところが、どうも最近、この教師会がただの事務連絡で終わってしまっていないかな、と危惧しています。

というのも、例えば、いくつかの教会が集まって、教会学校教師の修養会などを開くと、集まる方たちが、あまり積極的でない。
特に、聖書を語ること、そのための学びをすることにとても消極的だと、感じることが少なくないのです。

聖書を学ぶことに消極的なのはなぜなのでしょう。
聖書を読むことが楽しくないのでしょうか。
聖書から恵みを受けることが少ないのでしょうか。
御言葉を語る側が、嬉しくなければ、聞いている子供たちは、本当につまらないと思うのです。

おそらく、近い将来、どの教会も教会学校を閉じざるを得なくなるのでは無いかと思うのです。

教会学校を閉じてしまって、主日礼拝に子供たちも共にあずかる、という方法もあります。
いや、むしろこの方が良いかもしれない。

少なくとも、説教者は、聖書を読むことが楽しくてしょうが無いのですから。


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ブルックナー第5番-ブロムシュテット

日本にも何度から来ている指揮者、プロムシュテット氏がバンベルク交響楽団を率いて、ドイツのバンベルク、ヴュルツブルク、バッサウ、聖フローリアン(リンツ)のカテドラルで、ブルックナー交響曲第5番を演奏した。
その模様を、ブロムシュテット氏のインターネットも交えて、ドイツの放送局で流していたのだが、演奏もさることながら、インタビューの言葉に、耳をそばだてざるを得なかった。

私にとっては、どのコンサートも礼拝-神への奉仕(Gottesdienst)である。

2017年で90才を迎えたマエストロ。カトリックの信仰者らしい。
思わず、作曲家髙田三郎氏の言葉を思い起こした。高田氏も、カトリックの信仰者だが、日本語の典礼歌作曲の依頼を受けたときに、典礼の歌は、神の言葉であるから、違えてはならないということを念頭に置いたそうである。

両氏は、音楽を生業としているものの、それを神への捧げものと考えているところに、心を動かされる。

私たち、プロテスタントはどうなのだろうか。
礼拝の中の讃美歌を選ぶこと、一つにとつても、自分の気に入った歌、歌いたい歌を選んでみたり、礼拝の流れを何一つ考えないで雰囲気で選ぶ傾向があるような気がしてならない。
その時の説教テキストに挙げられている、聖書箇所に関係のある讃美歌を選んでいるつもりなのだろうが、そもそも、讃美歌の聖句索引がかなり怪しく、場合によっては、聖書のメッセージとはまるであっていないものが多く、困っている。
まして、礼拝が神への捧げもの、と捕らえているかどうかも疑わしくなってはいないだろうか。

私たちが、生活のすべてを神への捧げものとして歩むのならば、自分の思いではなく、自分自身を献げることから始めなければならないだろう。

となれば、礼拝は何よりも大切にしなければならない。教会学校の教師、奏楽者、その他の奉仕者が、その最も重要な礼拝に出ること無しに、どうして良い奉仕ができるのだろうか。

私は取るに足らないものですが、あなたが召してくださったのですから、このわたしをお使いください。
そう祈りつつ、背筋をただして、神の御前に歩みでよう。





はじめの一歩、次の一歩

中学生の時の数学の先生の口癖は、
「数学はな、99パーセントの努力と1パーセントのひらめきなんだぞ。でも、99パーセントの努力がないと、閃かないんだぞ。」
だった。要するに、日々、あきらめずにこつこつと勉強せい、ということだ。

中学を卒業してみると、じつは数学に限らずに、すべてに先生の口癖が大切なことが知れた。
できないといって投げ出すのは簡単なことだけど、それでは、一歩も前進しない。
少しずつでも努力すれば、多少後退することはあっても、結果的には前進できる。
焦らず、諦めずに、こつこつとおやりなさい、と先生は言ってくださったのだと思う。




posted by 羊 at 15:02Comment(0)日記

近頃の…

選挙が間近。
広報車が、これでもかと、大音響で通り過ぎていく。
学生の頃、通っていた学校が選挙区の境目にあって、表通りである候補の選挙カーががなり立てながら通っていると思ったら、裏通りでは、その息子の選挙カーが、はやりがなり立てながら走っていて、へいこうしたことがある。

投票日は、台風の影響も懸念されて、どうなることだろう。

ところで、選挙関連もの報道、広報、演説を聴いたり、見た入りして思うのだが、
どの候補も、はっきりとしたことをいわない。

減税、教育に無償化、最低賃金の値上げ等々。
国民の望んでいることを並べている候補、正当のほとんどが、その財源をどうするかを語っていない。
ただでさえ、赤字財政なのに。

後は決まり文句の連呼。
名前の連呼。
敵対正当の悪口(批判とおっしゃるかも知れないが、悪口にしか聞こえないものが本当に多い)

もっと困ったなと思うのは、涼しい顔をして、言っていることとやっていることがちぐはぐなこと。
たとえば、環境問題を演説しながら、住宅街に入ってきて有権者と握手をしている際で、アイドリングストップをせずに、車が待っているとか。
団地などの高層の建物の中に入ってきて、大音響で演説するとか。(建物に音が反射して、ものすごくうるさいんですよね。確か、なんかの環境問題について、演説をぶっていた。)

もっとおかしいと思うのは、落選した候補が
「私の努力が足りなかった」とか言う言葉。
選んでもらうと言うも、努力なのかな。努力ならば、もっとまっとうな選挙活動をしてもらいたいものです。
でも、あなたの努力の評価が当選に繋がるのではなくて、単に、有権者から選ばれなかっただけの話ではないか、とも思うのだが…。

まあ、有権者は、政治家からなめられてんじゃないか、とも思うのです。

なめられたくはないから、投票には行こうと思っていますけど…

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posted by 羊 at 20:00Comment(0)日記

今年は咲かないかも 月下美人

月下美人.jpg

これは、何年か前の月下美人です。
今年は、つぼみがでないので、咲かないかも。
忙しさと、夏ばてで、植物の世話も滞っています

子供たちを主の日の礼拝へ

「子供たちを、主の日の礼拝につなげるには、どうしたらいいでしょう」

という問をよく聴きます。
小学生の時は、教会学校の礼拝に元気に通ってきた子供たちが、中学生になったとたんに、来なくなる。
「部活があるので」「塾があるから」
と彼らは言うのですが、
「じゃ、部活の無いときには、教会に来るんだよ。」「塾のお休みの時には、教会においで」
というと、たいていは、
「ええ~。来るの?教会に来なきゃだめ~?」
と言う返事が返ってくるのです。

ということは、小学校の間で、教会で学んだのは、
「ここは、つまんないところだ」
ではないでしょうか。

というと、すぐに考えるのが、
子供たちが、喜んでくれるプログラムを考えよう。
だと思うのですが、それでよいのでしょうか。

思うのですが、子供たちは、本当に良く物事を見ているし考えている。
教会学校の先生が、僕たちに何をしたいのかもよく見ていると思うのです。
「教会に繋がってほしい。信仰告白をして、キリスト者になってほしい」

でも、その一方で、
「ここに集まる大人は、何をしているんだろうか。本当に、神さまを信じているんだろうか」
とも、考えているところがあると思います。

物事が多様化している現代。何でもありの世の中になって、教会に来る、信仰者になるも、多様化された選択肢の一つに過ぎなくなってしまっていると思うのです。

しかし、私たちの信仰は、「選択肢の一つ」ではないですよね。
この私が、真の命と幸いと慰めに生きる道は、主イエス・キリストのものとなることのみ。

で、これを示すには、子供たちにも、礼拝している姿を見せることが重要だと思うのです。
事実、小さな頃から、教会学校の礼拝だけでなく、主の日の礼拝に出ている子供たちは、信仰告白、洗礼へと導かれていく例が多いです。

「先生と一緒に、主の日の礼拝に出よう」
これを教会学校の合い言葉にしたいと、ずっと願っているのですが…。
本とを言うと、主の日の礼拝に一緒に出ることの方が、本来の姿なのですがね。


スマホライフ

友人から聞いた話なのだが、
ある学校で、ちょっとしたことで高校生たちがブーイングを始めたらしい。
ミッションスクールだというのだが、授業中や、学校での礼拝の時間は、スマホ、携帯の電源を切る、という校則があるらしい。
まあ、先生の側としては、授業中などにスマホなどでゲームをしているのは、もってのほか、ということなのだろう。

ところが、とある生徒が、学校からの紹介で、教会を訪ねたところ、礼拝中に、タブレットやスマホを広げている人がいた、というのである。
「教会に来る大人たちは、礼拝中でも、スマホの電源を入れてるじゃないか」というのが、彼らのブーイングの根拠になったというのだ。

はっきり言って、大笑い。

キミの観察力は最低だね。
礼拝に出席している方たちが、スマホでゲームをしていると思ってるのかい?
ときいてみたいものだ。
まあ、大学に行けば、学部によっては、それぞれがタブレットを持って、授業に参加し、教授からあらかじめメールで送られたり、研究室のHPからダウロードした資料を用いて授業をしているところもあるから、授業中でも、電源は切れなくなるよと言いたい。
ただ、教授の目を盗んで、ゲームをしていれば、今度は注意だけではすまされない。

しかし、問題は、考えてみると、結構大きいかも知れない。

近年は、タブレットやスマホが、福祉の現場でも使われるようになっている。
たとえば、弱視の方がテキストを見るときに、字を大きくする。
大型活字本というのもあるが、その文、本自体が大きくなるので持ち運ぶのは不可能。しかし、タブレットは、それを可能にした。

また、耳の聞こえが不自由な方には、音声をテキストにして表示するなどのサポートがつくことがある。
ボランティアが聴きとり、打ち込んだテキストをディスプレーなどに表示しているが、これも、近年、スマホやタブレットに、通信で配信するという方法も出てきた。メリットは、手元でテキストを見ることが出来るので、資料などを見ながら、説明を聞くなどと言うときには、有効らしい。
このシステムが紹介されたときも、「ゲームをしていると間違って解釈されて、冷たい視線を受けた」という、利用者のつぶやきをきいた。

学校の先生と生徒たちは、授業中、公演中等のスマホ等の取り扱いは、「なぜ、電源を切るのか。なぜ、音を出してはいけないのか。」から、考えてルールを作る必要があるだろう。
それを、「スマホの電源は切らなくてはいけません」と言うことだけで云々するのならば、律法主義者的なルールの解釈ではないだろうか。

私たちは、単純に「授業中、公演中のスマホはだめ」とか、物事を一方通行的にみてはいないだろうか。
どうして、そのようなルールが必要なのか。例外はあっていいのか、悪いのか。
一つのルールが作られたら、そのルールの根拠、適応範囲、等、多角的に検証してみる必要があるだろう。

だからさ、これからの社会を背負っていく高校生君たちよ、
世の中をもっと鋭く観察する目と、考察する柔らかい頭を持ってくれ。
そのためには、もっともっと、勉強しないとね。

登山、生きて帰るべし

痛ましい事故が起きてしまった。
そのニュースでワイド番組は、盛り上がっているが、何よりも、愛するものを失った御遺族へとの配慮を、お願いしたい。

そして、私たちがすることは、遭難事故の客観的な分析と、それから学んで、次の事故防止に役立てることだろう。

羊も登山が趣味で、冬山に行ったことも数度ある。
幸いに危ない目に遭ったことはないが、冬山は、夏山とはまるで別物。特に春山登山は、もっと難しいといわれている。
天気が移り変わりやすいし、そのために登山ルートの状況も、あっという間に変わってしまうからだ。

いろいろな番組で、ビーコンが話題になっているけれど、ビーコンを持っていても、雪に埋まった遭難者を早く掘り出すことには、変わりはない。だから、ビーコンは、遭難者捜索のための重要な機器だけれども、決してそれを持っていれば助かるものではないことを、先ず、肝に銘じておくことが必要ではないだろうか。
危険を察知して、回避することが何よりも大切だと思う。

夏山でもそうだけれど、自然相手のスポーツだから、的確な状況判断と、撤退する勇気、退路が断たれているときは、安全を確保してとどまる技術が一番必要だと思う。
近年、山で遭遇するのは、危なっかしいにわか登山者。ポールを振り回したり、道を譲り合わない人々には本当に困るが、それにもまして、雷が鳴っていようとも、「あそこで百名山達成だから」と前進したり、明らかに初心者向きではないところを、テレビ番組等で、さも楽しいそうに登っているのには、困ったものだと思う。

高校生たちが、「こんなに雪が積もっているのに?」と思った感覚は、正しいものだろう。
ベテランであっても過ちは犯す。先生のいうことだからと、従わないで、「おかしい」と思ったら、その意見もちゃんと言うことも、大切だし、そういう声があったら、ベテランはもう一度計画を練り直すものだとも思う。

いずれにしても、本当に残念な事故だ。
雪の山は、夏と違った魅力がある。知識と技術を磨いて、山の楽しさをもっと知ってほしかったと思う。
だからこそ、危険を冒して、ラッセル訓練するよりは、撤退するか、机上訓練、それこそ、雪崩の起きやすい気象条件などについての学びをする方が良かったのではないか。

山が好きならば、山で死ぬな。
自然に対しては、冒険を犯すよりは、小心者であれ。
指導者として立つ先生に、最もこのことを学んでほしい。

子どもの力

子供たちが小さかったときに、思いもよらない発見をしたことがあります。
子供たちが、普通にしていることが、じつは、鏡のように親の行動を反映しているということ。
いやはや、まいったなぁ という感じでした。

ママが怪我をしたとき。
「痛いの?痛いの?」
と小さいながらに心配してくれました。
自分がされたときのことを覚えていたんでしょうね。
同じように、風邪で熱を出したときも、額に小さな手を当てて、
真剣な顔。

同じようなことに出会ったママも、少なくないと思います。

そう、子どもはどんな小さくても、家族の一人としての役割を果たそうと、親のまねをするんですね。
確かに、まだまだ、小さくて、未熟で、手助けどころか、足手まといになるとが多いのですが、
その気持ちは否定したくないと思いました。

親が、何かトラブルを抱えてしまったとき。
子どもに心配をかけないようにと、隠してしまうケースがあります。
周りの、大人にも、口裏を合わせることを求めることもあると思います。

周りの大人の様子が、いくら口裏を合わせても、
子どもは、何かある、と本能的にかぎつけてしまうようです。
そして、僕は、家族の一員なのに、なぜ、
自分には秘密にされる必要があるのだろうと
思うようです。

まだ、そのことを言葉で言い表せない小さな子どもの場合、
それが体調の変化や、さまざまな行動に出ることがあるように思うのです。
言葉に言い表すことができる年齢でも、
それを表すことで、かえって親が苦しむのではないかと、
心配する気持ちを自分の中に押し込めて、かえって苦しんでいるケースもあると思います。

ケースバイケースだけれども、子どもも家族の一人。
親が、子どもの重荷を負ってあげようというのと同じほどに、
親の労苦を共に担う気持ちを持っているんじゃないだろうか。

いい、悪い。しては駄目、してもいい。
だけではなくて、子どもの行動の根っこにあるものは何だろうと考えてみれば、
子どもなりの言い分にきっと気づくことができると思います。
彼等は、どんなに未熟でも、一人の人間なのですから。
人を思いやるこころ、考えるこころを、持っているのですから。

神の恵に確信を持て

もう、何年前になるのだろうか。
かつて仕えていた教会に一人のご婦人がいた。
この方は、高齢者マンションにお住まいであった。静かな山の中、緑に囲まれたところにそれはあり、となりに同じ運営団体の経営と思われる保育園があって、子供たちの元気な声をいつも聴くことが出来ると、とても喜んでいらっしゃった。
一つの大きな問題は、そのマンションが教会から、かなり離れたところにあって、礼拝に来るのがなかなか大変だったこと。
それでも、お元気なときは、電車とタクシーを使って、礼拝に出席されていた。
年を経る毎に、だんだんそれが難しくなって、こちらから、そのマンションを訪ねて、小さな礼拝をすることを繰り返していたが、聖餐礼拝には、何とか教会に来られることを続けられた。

いつも、心ひかれたのは、このご夫人が、必ず前の席に座られること。 
しかも、尻込みしている教会の仲良しを連れて、さっさと前方の席にすわって、礼拝の開始を待たれるのである。
強制的な雰囲気はなく、彼女に手を引かれると、だれても、一緒に前方の席に座ってしまうのだった。

「神の御前に進み出る」
ということを、こころにいつも納められていた。

「前方の席から埋めていけば、後方の席には、主が求道者を入れてくださる」
と、かつて言ったことがあるのだが、一笑に伏されてしまった苦い経験がある。
「教会員が前方に座ったぐらいで、求道者が来るならば、苦労はないでしょう。ハハハ。」

座る位置については、わたしの恩師が教えてくださったことで、事実、恩師は、開拓伝道から教会を起こしたが、今では、何十人もの出席者を得る教会になった。もちろん、礼拝出席3人、5人という時代がなかったわけではない。
そんなときに、口癖のように、言ったのは、「伝道は、主と共に行うもの。一人で戦うと思っては駄目よ。だから、確信を持って、おやりなさい」

一笑に伏されて、反論は、いくらでもできたけれども、実のない事なのでやめた。
でも、とても悲しかったのは事実である。
前方に教会員が座ったくらいで、人は集まらない。
苦労をしないで、人を集めようなどとは、思ってもみない。
労苦はつきものなのである。
ただ、はじめから、人が来ない来ないと愚痴をこぼしながら、すったもんだするよりも、
聖霊の助けを求めて、あれこれする方が楽しいではないか。

「この会堂を主の名を求めてくる人たちでいっぱいにしてください」
わたしは、いつもそう祈って礼拝を始める。それは徒労だろうか。

聖書には、楽して結果を得た話は、一つも出てこない。
また、神の名による労苦が無駄になる話も、ひとつも無い。

こうしてわたしは、自分が走ったことが無駄でなく、労苦したことも無駄ではなかったと、キリストの日に誇ることができるでしょう。 (フィリピ2:16)

この世的には、無駄に見えても、信仰者の目には無駄にならないことはたくさんある。
神の名による労苦は、無駄どころか、喜びを伴う労苦である。
この確信を失ったら、おそらく、地上の教会は命を失うのではないか。

喜んで、前方の席に座ったあのご婦人、しかも、必ず、誰かの手を引いて一緒に前に座っていたことを思い出す。
「神の御前に進み出て」
きっと、このご婦人も、誰かの背中を見ながら、信仰の道に導かれたのだろう。
そして思う。
復活の朝には、真っ先に神の御前に進み出て、主を賛美されるのは、確実だと。



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