近頃の…

選挙が間近。
広報車が、これでもかと、大音響で通り過ぎていく。
学生の頃、通っていた学校が選挙区の境目にあって、表通りである候補の選挙カーががなり立てながら通っていると思ったら、裏通りでは、その息子の選挙カーが、はやりがなり立てながら走っていて、へいこうしたことがある。

投票日は、台風の影響も懸念されて、どうなることだろう。

ところで、選挙関連もの報道、広報、演説を聴いたり、見た入りして思うのだが、
どの候補も、はっきりとしたことをいわない。

減税、教育に無償化、最低賃金の値上げ等々。
国民の望んでいることを並べている候補、正当のほとんどが、その財源をどうするかを語っていない。
ただでさえ、赤字財政なのに。

後は決まり文句の連呼。
名前の連呼。
敵対正当の悪口(批判とおっしゃるかも知れないが、悪口にしか聞こえないものが本当に多い)

もっと困ったなと思うのは、涼しい顔をして、言っていることとやっていることがちぐはぐなこと。
たとえば、環境問題を演説しながら、住宅街に入ってきて有権者と握手をしている際で、アイドリングストップをせずに、車が待っているとか。
団地などの高層の建物の中に入ってきて、大音響で演説するとか。(建物に音が反射して、ものすごくうるさいんですよね。確か、なんかの環境問題について、演説をぶっていた。)

もっとおかしいと思うのは、落選した候補が
「私の努力が足りなかった」とか言う言葉。
選んでもらうと言うも、努力なのかな。努力ならば、もっとまっとうな選挙活動をしてもらいたいものです。
でも、あなたの努力の評価が当選に繋がるのではなくて、単に、有権者から選ばれなかっただけの話ではないか、とも思うのだが…。

まあ、有権者は、政治家からなめられてんじゃないか、とも思うのです。

なめられたくはないから、投票には行こうと思っていますけど…

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今年は咲かないかも 月下美人

月下美人.jpg

これは、何年か前の月下美人です。
今年は、つぼみがでないので、咲かないかも。
忙しさと、夏ばてで、植物の世話も滞っています

子供たちを主の日の礼拝へ

「子供たちを、主の日の礼拝につなげるには、どうしたらいいでしょう」

という問をよく聴きます。
小学生の時は、教会学校の礼拝に元気に通ってきた子供たちが、中学生になったとたんに、来なくなる。
「部活があるので」「塾があるから」
と彼らは言うのですが、
「じゃ、部活の無いときには、教会に来るんだよ。」「塾のお休みの時には、教会においで」
というと、たいていは、
「ええ~。来るの?教会に来なきゃだめ~?」
と言う返事が返ってくるのです。

ということは、小学校の間で、教会で学んだのは、
「ここは、つまんないところだ」
ではないでしょうか。

というと、すぐに考えるのが、
子供たちが、喜んでくれるプログラムを考えよう。
だと思うのですが、それでよいのでしょうか。

思うのですが、子供たちは、本当に良く物事を見ているし考えている。
教会学校の先生が、僕たちに何をしたいのかもよく見ていると思うのです。
「教会に繋がってほしい。信仰告白をして、キリスト者になってほしい」

でも、その一方で、
「ここに集まる大人は、何をしているんだろうか。本当に、神さまを信じているんだろうか」
とも、考えているところがあると思います。

物事が多様化している現代。何でもありの世の中になって、教会に来る、信仰者になるも、多様化された選択肢の一つに過ぎなくなってしまっていると思うのです。

しかし、私たちの信仰は、「選択肢の一つ」ではないですよね。
この私が、真の命と幸いと慰めに生きる道は、主イエス・キリストのものとなることのみ。

で、これを示すには、子供たちにも、礼拝している姿を見せることが重要だと思うのです。
事実、小さな頃から、教会学校の礼拝だけでなく、主の日の礼拝に出ている子供たちは、信仰告白、洗礼へと導かれていく例が多いです。

「先生と一緒に、主の日の礼拝に出よう」
これを教会学校の合い言葉にしたいと、ずっと願っているのですが…。
本とを言うと、主の日の礼拝に一緒に出ることの方が、本来の姿なのですがね。


スマホライフ

友人から聞いた話なのだが、
ある学校で、ちょっとしたことで高校生たちがブーイングを始めたらしい。
ミッションスクールだというのだが、授業中や、学校での礼拝の時間は、スマホ、携帯の電源を切る、という校則があるらしい。
まあ、先生の側としては、授業中などにスマホなどでゲームをしているのは、もってのほか、ということなのだろう。

ところが、とある生徒が、学校からの紹介で、教会を訪ねたところ、礼拝中に、タブレットやスマホを広げている人がいた、というのである。
「教会に来る大人たちは、礼拝中でも、スマホの電源を入れてるじゃないか」というのが、彼らのブーイングの根拠になったというのだ。

はっきり言って、大笑い。

キミの観察力は最低だね。
礼拝に出席している方たちが、スマホでゲームをしていると思ってるのかい?
ときいてみたいものだ。
まあ、大学に行けば、学部によっては、それぞれがタブレットを持って、授業に参加し、教授からあらかじめメールで送られたり、研究室のHPからダウロードした資料を用いて授業をしているところもあるから、授業中でも、電源は切れなくなるよと言いたい。
ただ、教授の目を盗んで、ゲームをしていれば、今度は注意だけではすまされない。

しかし、問題は、考えてみると、結構大きいかも知れない。

近年は、タブレットやスマホが、福祉の現場でも使われるようになっている。
たとえば、弱視の方がテキストを見るときに、字を大きくする。
大型活字本というのもあるが、その文、本自体が大きくなるので持ち運ぶのは不可能。しかし、タブレットは、それを可能にした。

また、耳の聞こえが不自由な方には、音声をテキストにして表示するなどのサポートがつくことがある。
ボランティアが聴きとり、打ち込んだテキストをディスプレーなどに表示しているが、これも、近年、スマホやタブレットに、通信で配信するという方法も出てきた。メリットは、手元でテキストを見ることが出来るので、資料などを見ながら、説明を聞くなどと言うときには、有効らしい。
このシステムが紹介されたときも、「ゲームをしていると間違って解釈されて、冷たい視線を受けた」という、利用者のつぶやきをきいた。

学校の先生と生徒たちは、授業中、公演中等のスマホ等の取り扱いは、「なぜ、電源を切るのか。なぜ、音を出してはいけないのか。」から、考えてルールを作る必要があるだろう。
それを、「スマホの電源は切らなくてはいけません」と言うことだけで云々するのならば、律法主義者的なルールの解釈ではないだろうか。

私たちは、単純に「授業中、公演中のスマホはだめ」とか、物事を一方通行的にみてはいないだろうか。
どうして、そのようなルールが必要なのか。例外はあっていいのか、悪いのか。
一つのルールが作られたら、そのルールの根拠、適応範囲、等、多角的に検証してみる必要があるだろう。

だからさ、これからの社会を背負っていく高校生君たちよ、
世の中をもっと鋭く観察する目と、考察する柔らかい頭を持ってくれ。
そのためには、もっともっと、勉強しないとね。

登山、生きて帰るべし

痛ましい事故が起きてしまった。
そのニュースでワイド番組は、盛り上がっているが、何よりも、愛するものを失った御遺族へとの配慮を、お願いしたい。

そして、私たちがすることは、遭難事故の客観的な分析と、それから学んで、次の事故防止に役立てることだろう。

羊も登山が趣味で、冬山に行ったことも数度ある。
幸いに危ない目に遭ったことはないが、冬山は、夏山とはまるで別物。特に春山登山は、もっと難しいといわれている。
天気が移り変わりやすいし、そのために登山ルートの状況も、あっという間に変わってしまうからだ。

いろいろな番組で、ビーコンが話題になっているけれど、ビーコンを持っていても、雪に埋まった遭難者を早く掘り出すことには、変わりはない。だから、ビーコンは、遭難者捜索のための重要な機器だけれども、決してそれを持っていれば助かるものではないことを、先ず、肝に銘じておくことが必要ではないだろうか。
危険を察知して、回避することが何よりも大切だと思う。

夏山でもそうだけれど、自然相手のスポーツだから、的確な状況判断と、撤退する勇気、退路が断たれているときは、安全を確保してとどまる技術が一番必要だと思う。
近年、山で遭遇するのは、危なっかしいにわか登山者。ポールを振り回したり、道を譲り合わない人々には本当に困るが、それにもまして、雷が鳴っていようとも、「あそこで百名山達成だから」と前進したり、明らかに初心者向きではないところを、テレビ番組等で、さも楽しいそうに登っているのには、困ったものだと思う。

高校生たちが、「こんなに雪が積もっているのに?」と思った感覚は、正しいものだろう。
ベテランであっても過ちは犯す。先生のいうことだからと、従わないで、「おかしい」と思ったら、その意見もちゃんと言うことも、大切だし、そういう声があったら、ベテランはもう一度計画を練り直すものだとも思う。

いずれにしても、本当に残念な事故だ。
雪の山は、夏と違った魅力がある。知識と技術を磨いて、山の楽しさをもっと知ってほしかったと思う。
だからこそ、危険を冒して、ラッセル訓練するよりは、撤退するか、机上訓練、それこそ、雪崩の起きやすい気象条件などについての学びをする方が良かったのではないか。

山が好きならば、山で死ぬな。
自然に対しては、冒険を犯すよりは、小心者であれ。
指導者として立つ先生に、最もこのことを学んでほしい。

子どもの力

子供たちが小さかったときに、思いもよらない発見をしたことがあります。
子供たちが、普通にしていることが、じつは、鏡のように親の行動を反映しているということ。
いやはや、まいったなぁ という感じでした。

ママが怪我をしたとき。
「痛いの?痛いの?」
と小さいながらに心配してくれました。
自分がされたときのことを覚えていたんでしょうね。
同じように、風邪で熱を出したときも、額に小さな手を当てて、
真剣な顔。

同じようなことに出会ったママも、少なくないと思います。

そう、子どもはどんな小さくても、家族の一人としての役割を果たそうと、親のまねをするんですね。
確かに、まだまだ、小さくて、未熟で、手助けどころか、足手まといになるとが多いのですが、
その気持ちは否定したくないと思いました。

親が、何かトラブルを抱えてしまったとき。
子どもに心配をかけないようにと、隠してしまうケースがあります。
周りの、大人にも、口裏を合わせることを求めることもあると思います。

周りの大人の様子が、いくら口裏を合わせても、
子どもは、何かある、と本能的にかぎつけてしまうようです。
そして、僕は、家族の一員なのに、なぜ、
自分には秘密にされる必要があるのだろうと
思うようです。

まだ、そのことを言葉で言い表せない小さな子どもの場合、
それが体調の変化や、さまざまな行動に出ることがあるように思うのです。
言葉に言い表すことができる年齢でも、
それを表すことで、かえって親が苦しむのではないかと、
心配する気持ちを自分の中に押し込めて、かえって苦しんでいるケースもあると思います。

ケースバイケースだけれども、子どもも家族の一人。
親が、子どもの重荷を負ってあげようというのと同じほどに、
親の労苦を共に担う気持ちを持っているんじゃないだろうか。

いい、悪い。しては駄目、してもいい。
だけではなくて、子どもの行動の根っこにあるものは何だろうと考えてみれば、
子どもなりの言い分にきっと気づくことができると思います。
彼等は、どんなに未熟でも、一人の人間なのですから。
人を思いやるこころ、考えるこころを、持っているのですから。

神の恵に確信を持て

もう、何年前になるのだろうか。
かつて仕えていた教会に一人のご婦人がいた。
この方は、高齢者マンションにお住まいであった。静かな山の中、緑に囲まれたところにそれはあり、となりに同じ運営団体の経営と思われる保育園があって、子供たちの元気な声をいつも聴くことが出来ると、とても喜んでいらっしゃった。
一つの大きな問題は、そのマンションが教会から、かなり離れたところにあって、礼拝に来るのがなかなか大変だったこと。
それでも、お元気なときは、電車とタクシーを使って、礼拝に出席されていた。
年を経る毎に、だんだんそれが難しくなって、こちらから、そのマンションを訪ねて、小さな礼拝をすることを繰り返していたが、聖餐礼拝には、何とか教会に来られることを続けられた。

いつも、心ひかれたのは、このご夫人が、必ず前の席に座られること。 
しかも、尻込みしている教会の仲良しを連れて、さっさと前方の席にすわって、礼拝の開始を待たれるのである。
強制的な雰囲気はなく、彼女に手を引かれると、だれても、一緒に前方の席に座ってしまうのだった。

「神の御前に進み出る」
ということを、こころにいつも納められていた。

「前方の席から埋めていけば、後方の席には、主が求道者を入れてくださる」
と、かつて言ったことがあるのだが、一笑に伏されてしまった苦い経験がある。
「教会員が前方に座ったぐらいで、求道者が来るならば、苦労はないでしょう。ハハハ。」

座る位置については、わたしの恩師が教えてくださったことで、事実、恩師は、開拓伝道から教会を起こしたが、今では、何十人もの出席者を得る教会になった。もちろん、礼拝出席3人、5人という時代がなかったわけではない。
そんなときに、口癖のように、言ったのは、「伝道は、主と共に行うもの。一人で戦うと思っては駄目よ。だから、確信を持って、おやりなさい」

一笑に伏されて、反論は、いくらでもできたけれども、実のない事なのでやめた。
でも、とても悲しかったのは事実である。
前方に教会員が座ったくらいで、人は集まらない。
苦労をしないで、人を集めようなどとは、思ってもみない。
労苦はつきものなのである。
ただ、はじめから、人が来ない来ないと愚痴をこぼしながら、すったもんだするよりも、
聖霊の助けを求めて、あれこれする方が楽しいではないか。

「この会堂を主の名を求めてくる人たちでいっぱいにしてください」
わたしは、いつもそう祈って礼拝を始める。それは徒労だろうか。

聖書には、楽して結果を得た話は、一つも出てこない。
また、神の名による労苦が無駄になる話も、ひとつも無い。

こうしてわたしは、自分が走ったことが無駄でなく、労苦したことも無駄ではなかったと、キリストの日に誇ることができるでしょう。 (フィリピ2:16)

この世的には、無駄に見えても、信仰者の目には無駄にならないことはたくさんある。
神の名による労苦は、無駄どころか、喜びを伴う労苦である。
この確信を失ったら、おそらく、地上の教会は命を失うのではないか。

喜んで、前方の席に座ったあのご婦人、しかも、必ず、誰かの手を引いて一緒に前に座っていたことを思い出す。
「神の御前に進み出て」
きっと、このご婦人も、誰かの背中を見ながら、信仰の道に導かれたのだろう。
そして思う。
復活の朝には、真っ先に神の御前に進み出て、主を賛美されるのは、確実だと。



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ルターとボーリング

 先日のことでした。ある分級の部屋から、「悪魔、悪魔・・・」と聞こえてくるので、びっくりして覗いてみると、みんなで楽しくペットボトルボーリングをしているところでした。
 当日の分級案にペットボトルボーリングがあったのです。でも、当日の聖書箇所は、イエスさまが、荒野で悪魔に試みられたときに、それを退けられたというところ。「なんで、ボーリング???」と思って、よくよく分級案を見てみると、こんな内容の事が書いてありました。

今日、私たちが遊んでいるボーリングの原型を作ったのは、宗教改革者のルターだそうです。ピンを悪魔に見立てて倒す遊びは昔からあったそうですが、それを競技の形にしたのが、ルターなんだそうです。そこで、私たちもルターさんに倣って(?)悪魔を退散させましょう。

ということで、「退け、サタン」という題がついていました。
ドイツにちょっといたことがあるのですが、そんな話は初耳です。で、調べてみたのですが、何しろボーリングの紀元は、古く、諸説あるようです。わたしの調べた範囲では、ルターの名前は出てきませんでした。まあ、中世ドイツにおいて、修道院の中でもケーゲルバーン(ドイツではこう言います。ピンの数も9本で、菱形に並べます)は、娯楽として盛んに行われていたようです。そんなこともあるので、ルターが競技の形にした、というのも、嘘ではないかも知れません。


ただ、問題なのは、そこに信仰的な意味があったかどうかです。わたしが思うに、ルターが絡んでいたとしても、単に娯楽の世界であって、信仰的な意味はなかったのではないでしょうか。

まあ、小学生の分級って、いろいろと考えさせられますよね。今の子供たちって、すぐに飽きちゃうから。だから、こういうゲームは確かに盛り上がります。(事実、担当の先生も含めて、かなり、盛り上がっていました)。でも、いつも考えるんですよ。聖書のメッセージと、遊びが乖離していいのかなって。

分級案では、悪魔が誘惑する言葉と、それを退けた主イエスのことばを、それぞれ、ペットボトルに貼り付けて、悪魔のピンを倒したら、得点が倍になり、さらに、その誘惑の言葉を退けた主イエスのことばを当てたら、得点アップというルールになっていましたが、悪魔を退けたのは、ピンを倒したボールじゃないですよね。それに、悪の誘惑と、対になる主イエスのことばを覚えることが、大切なんでしょうか。


もっと伝えなくちゃならない、大事なことがあると思うんですよ。例えば、「人はパンだけで生きるものではない、神の口から出るひとつひとつの言葉で生きる」という言葉一つとっても、本当に、「神の言葉で生きる」って、どういうことなんでしょう。そんな難しいこと、といわれるかも知れませんが、幼稚園の園児だって、先生との対話の中で、いろんなことを言ってくれますよ。そういう会話が必要なんじゃないだろうか。子供たち自身が考えて、それを言葉にしていってみる。イエスさまのお話ってすごいな、もっと聖書のお話を知りたいな、と思わせれば、分級は大成功だと思うのですが。


ゲームも工作も楽しいけれど、その場限りの楽しさで終わってしまったら、たぶん、子供たちは、大人になるに従って、教会から離れるでしょうね。

山のマナー

1件もないことを願っていたのだけれど、やはり、連休中の山の事故は起きてしまった。
連休中の3000メートル級は、天候次第では、厳冬期と同じ。
その天候もころころ変わるので、冬山よりも難しいと思うべし、です。

装備の不備、知識の欠如、
いろいろな理由は考えられるのだけれど、
近頃、ちょっと気になるのは、
テレビにしろ雑誌にしろ、登山関係の情報が軽いんじゃないだろうか。

例えば、
「これは、どう見てもエキスパートコースだよね」
という北アルプスのコースを、初心者を引き連れて簡単に登ってしまう。

その影響か、山には入ると、高齢の方たちが軽い装備で登るのに良く出会うのです。
ひやひやものですね。
それから、スマホやタブレットを持っている生でしょうか。
天気図を読まないし、何より一番大事な「観天望気」をしないんですよ。
風や空気、野生動物たちの動きを注意深く観察すれば、
天気が崩れるか、持つか、ピンポイント予報よりも分かるんだけれどな。
で、判断がつかないときは、すぐに非難できない奥には進まないことですよ。

それから、同じく気になるのは、マナー違反。
山の中で、ラジオ付けながら登っているおじいさんがいました。
山道で挨拶交わすのは、登る方からです。
登る方が息切れてるからで、降っている人から「こんにちは」と声かけられても、返答できないときもあるでしょう。坂道出てあったときは、上り優先が原則。ただし、団体で行動しているときは、くだりの人を長いこと待たせない配慮も必要かと。

一番気をつけてほしいのは、低山の場合でも、ポールの扱いです。
羊も使っていますが、使う人が増えましたよね。
山の中では、リュックに指しても良いですが、混雑しているところ、平地に降りてきたら、リュックに刺すのは、違反です。
経験ありませんか。リュックに刺さっているホールにぶつかりそうになって事は。電車やバスの降車時にリュックを背負うときに、後の人にあたりそうになっているのをしょっちゅう見かけます。
「ポールやピッケルは、下界に体に沿わせて、手に持つように」と指導されましたけど。

テレビや雑誌の情報番組では、「楽しい、絶景」しかやらないですよね。
本当に、楽しく登山をするためには、必要な知識、マナーについても、情報を流してほしいです。

何よりも、山の中では、人間もその一部。
自然に対しても、人に対しても、謙虚な気持ちで登りたいです。
事故成しに家に帰ってこそ、登山の成功なのだから。



ベビーカー 危機一髪

地下鉄での、あわやの事故。何もなくて、ほんとに良かった。
交通の運営会社には、安全のために、本当に注意してほしいです。

ただ、利用する私たちの側でも、危機回避のための努力をしてみませんか。

ドイツでは、ベビーカーどころか、もっとでかい乳母車まで、電車に乗せることができました。
乗せるときには、ほとんどと言っていいくらい、周りの人が助けてくれました。
(といっても、地方都市での経験なので、都会はどうか知らないよ)
なので、

ベビーカーを押して電車に乗せる

ンじゃなくて、

持ち上げて乗せていた

んです。

重いんですけど、メリットは

  1. 持ち上げることで、扉との間におとなの体も入ります。ということは、ドアが閉まっても、「あっ、挟まってる」と、センサーが反応してくれます。
  2. ドアに挟まれないまでも、ホームと電車の間に隙間がありますよね。結構ここに車輪を取られているのを見る事があります。あるときなんか、それでベビーカーがつんのめって、乗っていた子どもが車内に転落しているのを見たことがあります。車輪を転がして乗せるのは、リスクが大きいです。
  3. ちなみに、ドイツでも、階段式のエスカレーターに、ベビーカーを乗せることは、原則禁止でした。乗せてた人は多かったのですが、どちらかの車輪が宙に浮く状態ですし、これも、乗ったり降りたりするときに、段差に車輪が引っかかってベビーカーがつんのめることが多々あります。乗ってる子どもが転落しようものなら、後から後から、エスカレーターで、人が来るので大変なことのなります。

日に日に、体重の増してくる子どものお出かけには、ベビーカーは欠かせないアイテムだけれど、何よりも、乗ってる子どもの安全を考えましょう。使っている親も、周りにいる人たちも、です。

そうそう、ベビーカーって、子どもの頭の位置が低くなるので、猛暑の時の道路の照り返し、熱もすごいんですよ。

後、歩きたばこ。ちょうど火のついたたばこが、子どもの顔の高さになるんだよね。

上の子が、押したがるのも、要注意。止められないから。

それと、絶対にやめてほしいのは、



子どもを連れているママのスマホ



子どもは、ママに、スマホよりも、自分を見てほしいと思っているよ、きっと。



とにかく、子どもの事故は、みんなで防ごうよ。