2016年08月17日

神の恵に確信を持て

もう、何年前になるのだろうか。
かつて仕えていた教会に一人のご婦人がいた。
この方は、高齢者マンションにお住まいであった。静かな山の中、緑に囲まれたところにそれはあり、となりに同じ運営団体の経営と思われる保育園があって、子供たちの元気な声をいつも聴くことが出来ると、とても喜んでいらっしゃった。
一つの大きな問題は、そのマンションが教会から、かなり離れたところにあって、礼拝に来るのがなかなか大変だったこと。
それでも、お元気なときは、電車とタクシーを使って、礼拝に出席されていた。
年を経る毎に、だんだんそれが難しくなって、こちらから、そのマンションを訪ねて、小さな礼拝をすることを繰り返していたが、聖餐礼拝には、何とか教会に来られることを続けられた。

いつも、心ひかれたのは、このご夫人が、必ず前の席に座られること。 
しかも、尻込みしている教会の仲良しを連れて、さっさと前方の席にすわって、礼拝の開始を待たれるのである。
強制的な雰囲気はなく、彼女に手を引かれると、だれても、一緒に前方の席に座ってしまうのだった。

「神の御前に進み出る」
ということを、こころにいつも納められていた。

「前方の席から埋めていけば、後方の席には、主が求道者を入れてくださる」
と、かつて言ったことがあるのだが、一笑に伏されてしまった苦い経験がある。
「教会員が前方に座ったぐらいで、求道者が来るならば、苦労はないでしょう。ハハハ。」

座る位置については、わたしの恩師が教えてくださったことで、事実、恩師は、開拓伝道から教会を起こしたが、今では、何十人もの出席者を得る教会になった。もちろん、礼拝出席3人、5人という時代がなかったわけではない。
そんなときに、口癖のように、言ったのは、「伝道は、主と共に行うもの。一人で戦うと思っては駄目よ。だから、確信を持って、おやりなさい」

一笑に伏されて、反論は、いくらでもできたけれども、実のない事なのでやめた。
でも、とても悲しかったのは事実である。
前方に教会員が座ったくらいで、人は集まらない。
苦労をしないで、人を集めようなどとは、思ってもみない。
労苦はつきものなのである。
ただ、はじめから、人が来ない来ないと愚痴をこぼしながら、すったもんだするよりも、
聖霊の助けを求めて、あれこれする方が楽しいではないか。

「この会堂を主の名を求めてくる人たちでいっぱいにしてください」
わたしは、いつもそう祈って礼拝を始める。それは徒労だろうか。

聖書には、楽して結果を得た話は、一つも出てこない。
また、神の名による労苦が無駄になる話も、ひとつも無い。

こうしてわたしは、自分が走ったことが無駄でなく、労苦したことも無駄ではなかったと、キリストの日に誇ることができるでしょう。 (フィリピ2:16)

この世的には、無駄に見えても、信仰者の目には無駄にならないことはたくさんある。
神の名による労苦は、無駄どころか、喜びを伴う労苦である。
この確信を失ったら、おそらく、地上の教会は命を失うのではないか。

喜んで、前方の席に座ったあのご婦人、しかも、必ず、誰かの手を引いて一緒に前に座っていたことを思い出す。
「神の御前に進み出て」
きっと、このご婦人も、誰かの背中を見ながら、信仰の道に導かれたのだろう。
そして思う。
復活の朝には、真っ先に神の御前に進み出て、主を賛美されるのは、確実だと。



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2016年06月26日

成熟した人となる

6月の最後の主日は、神奈川連合長老会の講壇交換日です。
今年は、横浜大岡教会に派遣されました。
最寄り駅、京浜急行の上大岡駅から歩いて17分くらいです。バスも利用可です。
お近くの方は、是非、おたずねください。

詩編 102篇20〜29節
エフェソの信徒への手紙 4章1〜16節
「成熟した人となる」
posted by 羊 at 20:00| Comment(0) | TrackBack(1) | 教会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年05月14日

ルターとボーリング

 先日のことでした。ある分級の部屋から、「悪魔、悪魔・・・」と聞こえてくるので、びっくりして覗いてみると、みんなで楽しくペットボトルボーリングをしているところでした。
 当日の分級案にペットボトルボーリングがあったのです。でも、当日の聖書箇所は、イエスさまが、荒野で悪魔に試みられたときに、それを退けられたというところ。「なんで、ボーリング???」と思って、よくよく分級案を見てみると、こんな内容の事が書いてありました。

今日、私たちが遊んでいるボーリングの原型を作ったのは、宗教改革者のルターだそうです。ピンを悪魔に見立てて倒す遊びは昔からあったそうですが、それを競技の形にしたのが、ルターなんだそうです。そこで、私たちもルターさんに倣って(?)悪魔を退散させましょう。

ということで、「退け、サタン」という題がついていました。
ドイツにちょっといたことがあるのですが、そんな話は初耳です。で、調べてみたのですが、何しろボーリングの紀元は、古く、諸説あるようです。わたしの調べた範囲では、ルターの名前は出てきませんでした。まあ、中世ドイツにおいて、修道院の中でもケーゲルバーン(ドイツではこう言います。ピンの数も9本で、菱形に並べます)は、娯楽として盛んに行われていたようです。そんなこともあるので、ルターが競技の形にした、というのも、嘘ではないかも知れません。


ただ、問題なのは、そこに信仰的な意味があったかどうかです。わたしが思うに、ルターが絡んでいたとしても、単に娯楽の世界であって、信仰的な意味はなかったのではないでしょうか。

まあ、小学生の分級って、いろいろと考えさせられますよね。今の子供たちって、すぐに飽きちゃうから。だから、こういうゲームは確かに盛り上がります。(事実、担当の先生も含めて、かなり、盛り上がっていました)。でも、いつも考えるんですよ。聖書のメッセージと、遊びが乖離していいのかなって。

分級案では、悪魔が誘惑する言葉と、それを退けた主イエスのことばを、それぞれ、ペットボトルに貼り付けて、悪魔のピンを倒したら、得点が倍になり、さらに、その誘惑の言葉を退けた主イエスのことばを当てたら、得点アップというルールになっていましたが、悪魔を退けたのは、ピンを倒したボールじゃないですよね。それに、悪の誘惑と、対になる主イエスのことばを覚えることが、大切なんでしょうか。


もっと伝えなくちゃならない、大事なことがあると思うんですよ。例えば、「人はパンだけで生きるものではない、神の口から出るひとつひとつの言葉で生きる」という言葉一つとっても、本当に、「神の言葉で生きる」って、どういうことなんでしょう。そんな難しいこと、といわれるかも知れませんが、幼稚園の園児だって、先生との対話の中で、いろんなことを言ってくれますよ。そういう会話が必要なんじゃないだろうか。子供たち自身が考えて、それを言葉にしていってみる。イエスさまのお話ってすごいな、もっと聖書のお話を知りたいな、と思わせれば、分級は大成功だと思うのですが。


ゲームも工作も楽しいけれど、その場限りの楽しさで終わってしまったら、たぶん、子供たちは、大人になるに従って、教会から離れるでしょうね。

posted by 羊 at 12:00| 教会学校 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年05月03日

山のマナー

1件もないことを願っていたのだけれど、やはり、連休中の山の事故は起きてしまった。
連休中の3000メートル級は、天候次第では、厳冬期と同じ。
その天候もころころ変わるので、冬山よりも難しいと思うべし、です。

装備の不備、知識の欠如、
いろいろな理由は考えられるのだけれど、
近頃、ちょっと気になるのは、
テレビにしろ雑誌にしろ、登山関係の情報が軽いんじゃないだろうか。

例えば、
「これは、どう見てもエキスパートコースだよね」
という北アルプスのコースを、初心者を引き連れて簡単に登ってしまう。

その影響か、山には入ると、高齢の方たちが軽い装備で登るのに良く出会うのです。
ひやひやものですね。
それから、スマホやタブレットを持っている生でしょうか。
天気図を読まないし、何より一番大事な「観天望気」をしないんですよ。
風や空気、野生動物たちの動きを注意深く観察すれば、
天気が崩れるか、持つか、ピンポイント予報よりも分かるんだけれどな。
で、判断がつかないときは、すぐに非難できない奥には進まないことですよ。

それから、同じく気になるのは、マナー違反。
山の中で、ラジオ付けながら登っているおじいさんがいました。
山道で挨拶交わすのは、登る方からです。
登る方が息切れてるからで、降っている人から「こんにちは」と声かけられても、返答できないときもあるでしょう。坂道出てあったときは、上り優先が原則。ただし、団体で行動しているときは、くだりの人を長いこと待たせない配慮も必要かと。

一番気をつけてほしいのは、低山の場合でも、ポールの扱いです。
羊も使っていますが、使う人が増えましたよね。
山の中では、リュックに指しても良いですが、混雑しているところ、平地に降りてきたら、リュックに刺すのは、違反です。
経験ありませんか。リュックに刺さっているホールにぶつかりそうになって事は。電車やバスの降車時にリュックを背負うときに、後の人にあたりそうになっているのをしょっちゅう見かけます。
「ポールやピッケルは、下界に体に沿わせて、手に持つように」と指導されましたけど。

テレビや雑誌の情報番組では、「楽しい、絶景」しかやらないですよね。
本当に、楽しく登山をするためには、必要な知識、マナーについても、情報を流してほしいです。

何よりも、山の中では、人間もその一部。
自然に対しても、人に対しても、謙虚な気持ちで登りたいです。
事故成しに家に帰ってこそ、登山の成功なのだから。



posted by 羊 at 19:35| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年04月08日

ベビーカー 危機一髪

地下鉄での、あわやの事故。何もなくて、ほんとに良かった。
交通の運営会社には、安全のために、本当に注意してほしいです。

ただ、利用する私たちの側でも、危機回避のための努力をしてみませんか。

ドイツでは、ベビーカーどころか、もっとでかい乳母車まで、電車に乗せることができました。
乗せるときには、ほとんどと言っていいくらい、周りの人が助けてくれました。
(といっても、地方都市での経験なので、都会はどうか知らないよ)
なので、

ベビーカーを押して電車に乗せる

ンじゃなくて、

持ち上げて乗せていた

んです。

重いんですけど、メリットは

  1. 持ち上げることで、扉との間におとなの体も入ります。ということは、ドアが閉まっても、「あっ、挟まってる」と、センサーが反応してくれます。
  2. ドアに挟まれないまでも、ホームと電車の間に隙間がありますよね。結構ここに車輪を取られているのを見る事があります。あるときなんか、それでベビーカーがつんのめって、乗っていた子どもが車内に転落しているのを見たことがあります。車輪を転がして乗せるのは、リスクが大きいです。
  3. ちなみに、ドイツでも、階段式のエスカレーターに、ベビーカーを乗せることは、原則禁止でした。乗せてた人は多かったのですが、どちらかの車輪が宙に浮く状態ですし、これも、乗ったり降りたりするときに、段差に車輪が引っかかってベビーカーがつんのめることが多々あります。乗ってる子どもが転落しようものなら、後から後から、エスカレーターで、人が来るので大変なことのなります。

日に日に、体重の増してくる子どものお出かけには、ベビーカーは欠かせないアイテムだけれど、何よりも、乗ってる子どもの安全を考えましょう。使っている親も、周りにいる人たちも、です。

そうそう、ベビーカーって、子どもの頭の位置が低くなるので、猛暑の時の道路の照り返し、熱もすごいんですよ。

後、歩きたばこ。ちょうど火のついたたばこが、子どもの顔の高さになるんだよね。

上の子が、押したがるのも、要注意。止められないから。

それと、絶対にやめてほしいのは、



子どもを連れているママのスマホ



子どもは、ママに、スマホよりも、自分を見てほしいと思っているよ、きっと。



とにかく、子どもの事故は、みんなで防ごうよ。




posted by 羊 at 16:53| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年03月19日

「あさが来た」O Load!Correct me. は讃美歌!?

朝ドラ「あさが来た」の中で、成澤泉の歌う O Lord! Correct me.  が、何かと話題になっている。
これは成澤泉のモデルとなっている、日本女子大学の創設者、成瀬仁蔵の愛唱歌。
附属校の生徒手帳にさえ、校歌、学生歌と並んで、採譜されているくらいだから、女子大の卒業生ならば
「あれか」と思うはず。

で、改めてインターネットで見ていると、
原曲は、ヘンデル作曲のオペラ「リナルド」のなかのアリア「涙の流れるままに」だと紹介されているものがあり、
これはイタリア語の曲なので、その英訳かと思われている節がある様に思える。

でも、英語の歌詞は,もとのアリアの歌詞とは意味が全然違う。

おお、主よ。私を正しい道に導いてください。
あなたの怒りに内におかないでください。
わたしを、憐れんでください。
そして、私のすべての罪をきよめてください。
わたしを憐れんでください,わたしを憐れんでください。
そして、私のすべての罪をきよめてください。
おお、主よ。私を正しい道に導いてください。
あなたの怒りに内におかないでください。
わたしを、憐れんでください。
ああ、私を悪の道から、完全に洗ってください。
私を、遠ざけないでください。
あなたの御前から、遠ざけないでください。
あなたの聖なる霊を、
あなたの霊を、私から取り上げないでください。
おお、主よ。私を正しい道に導いてください。
あなたの怒りに内におかないでください。
わたしを、憐れんでください。
そして、私のすべての罪をきよめてください。
(かなり意訳の私訳です。)

作詞者J.S.Dwight(1812−1893)は、教会音楽にも造詣の深い牧師であったことを考えると、
ヘンデルの曲にDwightが歌詞を付けて讃美歌にしたのではないかと思う。
現行の日本の讃美歌にも、クラシックの有名な曲に、歌詞を付けて、讃美歌にしているものはたくさんあるから、
当然、起こりうることだろう。
因みに、Dwightは、クリスマスに良く歌われる O Holly Night(さやかに星はきらめき)をフランス語から英訳した人。

成瀬先生は、1890-1894にアメリカに留学し、アンドーバー神学校(新島襄も卒業生)、つづいてクラーク大学で、学んでいるので、
Dwightの業績にも、どこかで触れていたのだろう。
キリスト者であり、伝道者としての経歴を持つ成瀬先生だから、この歌(たぶん、留学時代に聞いた讃美歌)が愛唱歌となったのではないか。(ひつじは、附属高校に入ったときに、この歌を知ったのですが、ずっと讃美歌だと確信していました)

全部の歌詞が知りたい方は、大学のHPを見てください。

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2016年02月10日

私たちの希望

改めて、来週の説教題が張られた看板を見て、「!」

「復活」と書いてある。
もし、教会暦にうるさいキリスト者が見たら、何と思うだろうか。
というのも、今年は、今日、2月10日(水)から受難節が始まるからだ。
今年のイースターは3月27日。それまでの期間、主イエスのみ苦しみを思いながら過ごす期間と言われている。なのに、受難節が始まって最初の主日が「復活」とは。
これには理由がある。今、ルカによる福音書を少しずつ読み進めている。それで、順番に行くと、2月14日(日)は、ルカによる福音書第24章の冒頭、主イエスの復活を記しているところになるのである。
もちろん、考えなかったわけではない。イースターの時まで、別の聖書箇所で説教をすることも可能だった。ただ、いろいろと考え、祈ったあげく、間をおかずに続けて24章のみ言葉を説こうと思ったのである。
こう思ったきっかけは、ずいぶん前からの引っかかりなのだけれど。

ずっと以前のことだが、主イエスの受難というと、「痛い」「苦しい」というイメージと、「私たちの罪」というイメージで、「暗い期間」を過ごすように思っている方がいたからである。イースターの明るさを待ち望むように、受難節を過ごす。確かに、この季節に、飲酒、肉食、その他の趣味さえ差し控えて過ごす人がいないわけではない。でも、「暗さ」はないのではないか。
否、むしろ、主イエスの受難の意味を心に刻むのならば、そこから福音が聞こえてこなければならない。ただ、痛いだけの受難の意味ならば、ただ、苦しいだけの受難の意味ならば、ただ、みずからの罪を思って過ごすだけの受難節ならば、主イエスによって救われた「今」の私は何なのだろう。
私が洗礼を受けた教会では、受難週に、指名された信徒が、朝夕の祈祷会の奨励、司会を担当した。牧師も、信徒の語る奨励に熱心に耳を傾けた。教会に通い始めて半年で受洗してしまった私は、洗礼を受けてからはじめて受難節を過ごした。それだけに、受難週の祈祷会は、とても新鮮だった。何よりも、どの方も、主イエスの十字架の救いをはっきりと証しされていることに、心動かされた。
主イエスの受難が、この私の救いであり、命となったことが、はっきり語られたからである。

こんな事も、受難節に入ってすぐでも、ルカによる福音書第24章を語ろうという決心を促したんだと思う。
主イエスの十字架を、真の命の十字架を、しっかりと指し示したい。
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2016年01月08日

皆勤賞

毎年、年末になると教会学校の皆勤賞のお知らせが来ます。
申し込んでおくと、賞状とその年のバッジが送られてきます。
子供たちは、ある意味、よろこんでいるのですが、羊はいろいろと考えしまいます。

申命記に、次のような言葉があります。

申命記 第6章 7節
子供たちに繰り返し教え、家に座っているときも道を歩くときも、寝ているときも起きているときも、これを語り聞かせなさい。

いつもみ言葉を語りきかせるのは、子供たちが、神の御言葉によって生活し、生きるようになるためです。
だから、教会学校の働きも、ここにあると言えるでしょう。
つまり、
聖書の解説や教理の解説なんかをしているんじゃなくて、神の言葉を聴くことが、どんなに幸せなことで、また、大切なことかを、身をもって示すこと、語りきかせること、なんです。

子供たちが、教会に来て、本当にここに大切なことがあるんだ、と、実感できること。

で、先の皆勤賞なのですが、これはいわば、毎週日曜日に教会に来ましたね、というご褒美です。
教会に来るのは、神様の招きに応えてくるのであって、自分が来たいから来る、来たくないけれども、お母さんに連れられてきたから来る、というものではないはずです。
子供たちを教会に連れてこられるお父さん、お母さんも、ただ、義務で連れてきているのではないと思うのです。
教会と同じように、子供たちが神様のみ言葉の光の中で成長し、信仰を持って生きることを望んでいるからこそ、毎週日曜日に神様の前で礼拝するのではないでしょうか。
神様のお招きにあなたは良く、応えて教会に来ました。ご褒美をあげましょう。で、良いのかな、とも思うのです。

もちろん、子供たちの今の現状も過酷です。

中学生以上になると、部活や塾などをやりくりしてくる子供たちもいるので、確かに、教会に来るのは、努力のいることかもしれません。
でも、あなたは努力しましたから、ご褒美をあげましょう。というのは、信仰の筋道とは、一寸違うのではないでしょうか。
なぜならば、ご褒美に象徴されるのは、「私の努力」だからです。
やりくりしながら来ることができたのは、「神様の導きと恵み」ではないのかな。

クリスマスに教会に行けば、お菓子がもらえるよ。
遊んでくれる人がいるよ。

もちろん、そういう手で、教会に子供たちを引っ張ってくるのも、「あり」だと思います。
でも、一言添えてほしいのです。

教会に行って得られるお菓子も、友達も、みんな神さまの恵だよ。と

でなければ、お菓子や友人、ご褒美で、子供たちをつっていることになりませんか。
どんなに小さな子どもでも、動物じゃないんです。
神様から、体と心と命をいただいた、一人の人間なのです。
一人一人が、神様からのお招きを受けている一人の人間なのです。

と、羊は考えるのですが…
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2015年11月26日

救い主が来る

いよいよ、今年もアドヴェントの季節を迎えなます。
11月29日が第1アドヴェント。
クリスマスの飾りを作ったり、クッキーを焼き始めたりと。

この時期、いつも思うのは、
教会でのクリスマスを単なるお祝い、お祭りにしたくないと言うことです。

ドイツで暮らしていたときに、クリスマスのこども番組の中で、しばしば聞いたのは、
「クリスマスは一人で過ごす時じゃないよ」という言葉でした。

「クリボッチ」なんて言葉がありますが、そう、一人で過ごす時じゃないんです。
何故かと言えば、悲しんでいる人、弱っている人、つらい思いをしている私どものところに、
神の子が来てくださったからです。

だから、主イエスが生まれたときに、飼い葉桶の周りに、いろんな人が集まりました。
救い主の周りに、色々な人が集められたんですよ。

去年はいっしょに讃美歌を歌ったけど、今年は、その最愛の人を失って、
一人で讃美歌を歌わなきゃならない、と思っている人もあるかも知れません。
いいえ、信仰の仲間たちが、そして、天使たちが、いっしょにクリスマスの歌を歌うのですよ。
だから、涙を流しても、その歌の中に、あなたがいてほしいと、主イエスは願っているのです。

だからこそ、お祭り騒ぎにしたくない。
ただの楽しいクリスマスにしたくない。
本当の慰めと喜びのあふれるところを、指し示したいと願っているのです。

2015Weihnacht.jpg


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2015年11月07日

「舌」という小さな器官

ヤコブの手紙第3章 9節
わたしたちは舌で、父である主を賛美し、また、舌で、神にかたどって造られた人間を呪います。

全く、この困った小さな器官は、扱いを間違えるととんでもないことになる。
大きな森さえ燃やしてしまうほどの力を持つと、ヤコブの手紙は伝えている。
同時に忘れてはならないのは、私たちは、この小さな器官で、
同じように、神を賛美し、祈り、証しする。ならば、その使い方は、心してかからなければと思う。

とはいえ、時々は、心して苦言を言わなければならないときもある。
なかなか、それがつらい。

子どもがうんと小さかったときに、小言を言うのが本当にいやになったことがある。
ムーミンママのように、叱らないでいるままでいられたら、どんなにいいだろうと思った。
そうしたら、知り合いの一人から、
「でも、叱る必要があるから叱ったんでしょ。駄目なことは、駄目ときちんと言わないと生けないから、言ったんでしょ。
感情に流されるままに、叱ったのでないならば、それは必要なことだったんだよ。」と
励まされたことがある。
自分の気持ちのままに、感情に流されなければ…。

そうなると、冷静であることが、常に求められてくる。
子どもを叱るにしても、どうして、叱られるようなことをしちゃったのか。
小さくても、それなりの理由を持っていることに、いくつも気づかされてきた。
そして、ゆるしと和解…。

おとなの世界でも、同じなんだろうなと思う。
でも、小さな子供たちとは違って、解決の糸口が、そう簡単には見つからない。
ん〜。困った、困った。

でも、恐らく。嘆いていてもしょうがないんだろうな。
そう、この小さな器官で嘆けば、嘆きの響きしか出ないじゃないか。
それならば、この小さな器官をしばらく使わないこともありかなと思う。
(ま、沈黙は、かなりのストレスがかかりますので、エネルギーを、かなり、消耗しますけどね)

とにかく、この小さな器官は、神を賛美するために、神に祈るために、神を証しするために、神が与えてくださったものなのですから、
それ以外のことに使うことがないように、主よ、導いてください。
posted by 羊 at 18:16| Comment(0) | TrackBack(0) | ひつじの願い | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする