大切なもの

イソップ物語に「三本の斧」というのがある。
そう、木こりが誤って、斧を湖に落としてしまった所、女神が現れて
金の斧、銀の斧を差し出す…
あの物語だ。

木こりは正直に、「自分の落としたのは鉄の斧だ」と言ったので、
その正直を感心した神様は、金の斧も銀の斧も与えた。
めでたし、めでたし。

人間、正直に生きていると良いことあるよ、と言う教訓らしい。

しかし、まあ、ちょっとひねくれて考えてみる。
木こりにとって、一番大切なものは何だったのだろう。

金銀に目がくらむというのも分かる。この物語には、
後半、不正直な木こりが出てきて、わざと斧を湖に落として、
金銀の斧をもらおうとするから、ここに、人間の物欲がよく表れているだろう。

正直者の木こりが正直であったということだけれども、
木こりにとって、本当に、一番大事な者は何だったのだろう。

職人が道具を大事にするように、木こりにとっては、生業の道具、
斧が一番大切だったんじゃないだろうか。
金製の斧、銀製の斧は、そりゃ、工芸品としてはすばらしかったろうし、
売れれば、かなりのお金が入ったかもしれない。
だが、金製の斧も、銀製の斧も木を切るには、役には立ちそうにない。
木こりが木こりであろうとするならば、
最も大切なものは、鉄の斧だろう。

とすると、木こりは、自分が生きていく上で、
最も大切なものを選んだということになるんだろうな。

マタイによる福音書/ 06章 25、33~34節
「だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。
何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」

嵐の後に

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台風で家の中に避難していた月下美人。
今年2度目の開花となりました。
嵐の後で、また、美しい花が見られるなんて…♡

コリントの信徒への手紙一 第 10章 13節
あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。

posted by 羊 at 18:35Comment(0)日記

教会学校教師の学び

どの教会にも、子供たちのためのプログラムを用意していると思います。
子どもの教会とか、教会学校とかよばれているものです。
これには、教会の信徒も方々も加わって、こどもたちへの伝道を行います。
そう、社会と同じく、将来の教会を背負っていく世代への伝道です。

多くの教会は、月1回、教会学校教師会のように、そのための会議を開いていると思います。
ところが、どうも最近、この教師会がただの事務連絡で終わってしまっていないかな、と危惧しています。

というのも、例えば、いくつかの教会が集まって、教会学校教師の修養会などを開くと、集まる方たちが、あまり積極的でない。
特に、聖書を語ること、そのための学びをすることにとても消極的だと、感じることが少なくないのです。

聖書を学ぶことに消極的なのはなぜなのでしょう。
聖書を読むことが楽しくないのでしょうか。
聖書から恵みを受けることが少ないのでしょうか。
御言葉を語る側が、嬉しくなければ、聞いている子供たちは、本当につまらないと思うのです。

おそらく、近い将来、どの教会も教会学校を閉じざるを得なくなるのでは無いかと思うのです。

教会学校を閉じてしまって、主日礼拝に子供たちも共にあずかる、という方法もあります。
いや、むしろこの方が良いかもしれない。

少なくとも、説教者は、聖書を読むことが楽しくてしょうが無いのですから。


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posted by 羊 at 19:09Comment(0)日記

ブルックナー第5番-ブロムシュテット

日本にも何度から来ている指揮者、プロムシュテット氏がバンベルク交響楽団を率いて、ドイツのバンベルク、ヴュルツブルク、バッサウ、聖フローリアン(リンツ)のカテドラルで、ブルックナー交響曲第5番を演奏した。
その模様を、ブロムシュテット氏のインターネットも交えて、ドイツの放送局で流していたのだが、演奏もさることながら、インタビューの言葉に、耳をそばだてざるを得なかった。

私にとっては、どのコンサートも礼拝-神への奉仕(Gottesdienst)である。

2017年で90才を迎えたマエストロ。カトリックの信仰者らしい。
思わず、作曲家髙田三郎氏の言葉を思い起こした。高田氏も、カトリックの信仰者だが、日本語の典礼歌作曲の依頼を受けたときに、典礼の歌は、神の言葉であるから、違えてはならないということを念頭に置いたそうである。

両氏は、音楽を生業としているものの、それを神への捧げものと考えているところに、心を動かされる。

私たち、プロテスタントはどうなのだろうか。
礼拝の中の讃美歌を選ぶこと、一つにとつても、自分の気に入った歌、歌いたい歌を選んでみたり、礼拝の流れを何一つ考えないで雰囲気で選ぶ傾向があるような気がしてならない。
その時の説教テキストに挙げられている、聖書箇所に関係のある讃美歌を選んでいるつもりなのだろうが、そもそも、讃美歌の聖句索引がかなり怪しく、場合によっては、聖書のメッセージとはまるであっていないものが多く、困っている。
まして、礼拝が神への捧げもの、と捕らえているかどうかも疑わしくなってはいないだろうか。

私たちが、生活のすべてを神への捧げものとして歩むのならば、自分の思いではなく、自分自身を献げることから始めなければならないだろう。

となれば、礼拝は何よりも大切にしなければならない。教会学校の教師、奏楽者、その他の奉仕者が、その最も重要な礼拝に出ること無しに、どうして良い奉仕ができるのだろうか。

私は取るに足らないものですが、あなたが召してくださったのですから、このわたしをお使いください。
そう祈りつつ、背筋をただして、神の御前に歩みでよう。





はじめの一歩、次の一歩

中学生の時の数学の先生の口癖は、
「数学はな、99パーセントの努力と1パーセントのひらめきなんだぞ。でも、99パーセントの努力がないと、閃かないんだぞ。」
だった。要するに、日々、あきらめずにこつこつと勉強せい、ということだ。

中学を卒業してみると、じつは数学に限らずに、すべてに先生の口癖が大切なことが知れた。
できないといって投げ出すのは簡単なことだけど、それでは、一歩も前進しない。
少しずつでも努力すれば、多少後退することはあっても、結果的には前進できる。
焦らず、諦めずに、こつこつとおやりなさい、と先生は言ってくださったのだと思う。




posted by 羊 at 15:02Comment(0)日記

近頃の…

選挙が間近。
広報車が、これでもかと、大音響で通り過ぎていく。
学生の頃、通っていた学校が選挙区の境目にあって、表通りである候補の選挙カーががなり立てながら通っていると思ったら、裏通りでは、その息子の選挙カーが、はやりがなり立てながら走っていて、へいこうしたことがある。

投票日は、台風の影響も懸念されて、どうなることだろう。

ところで、選挙関連もの報道、広報、演説を聴いたり、見た入りして思うのだが、
どの候補も、はっきりとしたことをいわない。

減税、教育に無償化、最低賃金の値上げ等々。
国民の望んでいることを並べている候補、正当のほとんどが、その財源をどうするかを語っていない。
ただでさえ、赤字財政なのに。

後は決まり文句の連呼。
名前の連呼。
敵対正当の悪口(批判とおっしゃるかも知れないが、悪口にしか聞こえないものが本当に多い)

もっと困ったなと思うのは、涼しい顔をして、言っていることとやっていることがちぐはぐなこと。
たとえば、環境問題を演説しながら、住宅街に入ってきて有権者と握手をしている際で、アイドリングストップをせずに、車が待っているとか。
団地などの高層の建物の中に入ってきて、大音響で演説するとか。(建物に音が反射して、ものすごくうるさいんですよね。確か、なんかの環境問題について、演説をぶっていた。)

もっとおかしいと思うのは、落選した候補が
「私の努力が足りなかった」とか言う言葉。
選んでもらうと言うも、努力なのかな。努力ならば、もっとまっとうな選挙活動をしてもらいたいものです。
でも、あなたの努力の評価が当選に繋がるのではなくて、単に、有権者から選ばれなかっただけの話ではないか、とも思うのだが…。

まあ、有権者は、政治家からなめられてんじゃないか、とも思うのです。

なめられたくはないから、投票には行こうと思っていますけど…

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posted by 羊 at 20:00Comment(0)日記

今年は咲かないかも 月下美人

月下美人.jpg

これは、何年か前の月下美人です。
今年は、つぼみがでないので、咲かないかも。
忙しさと、夏ばてで、植物の世話も滞っています

子供たちを主の日の礼拝へ

「子供たちを、主の日の礼拝につなげるには、どうしたらいいでしょう」

という問をよく聴きます。
小学生の時は、教会学校の礼拝に元気に通ってきた子供たちが、中学生になったとたんに、来なくなる。
「部活があるので」「塾があるから」
と彼らは言うのですが、
「じゃ、部活の無いときには、教会に来るんだよ。」「塾のお休みの時には、教会においで」
というと、たいていは、
「ええ~。来るの?教会に来なきゃだめ~?」
と言う返事が返ってくるのです。

ということは、小学校の間で、教会で学んだのは、
「ここは、つまんないところだ」
ではないでしょうか。

というと、すぐに考えるのが、
子供たちが、喜んでくれるプログラムを考えよう。
だと思うのですが、それでよいのでしょうか。

思うのですが、子供たちは、本当に良く物事を見ているし考えている。
教会学校の先生が、僕たちに何をしたいのかもよく見ていると思うのです。
「教会に繋がってほしい。信仰告白をして、キリスト者になってほしい」

でも、その一方で、
「ここに集まる大人は、何をしているんだろうか。本当に、神さまを信じているんだろうか」
とも、考えているところがあると思います。

物事が多様化している現代。何でもありの世の中になって、教会に来る、信仰者になるも、多様化された選択肢の一つに過ぎなくなってしまっていると思うのです。

しかし、私たちの信仰は、「選択肢の一つ」ではないですよね。
この私が、真の命と幸いと慰めに生きる道は、主イエス・キリストのものとなることのみ。

で、これを示すには、子供たちにも、礼拝している姿を見せることが重要だと思うのです。
事実、小さな頃から、教会学校の礼拝だけでなく、主の日の礼拝に出ている子供たちは、信仰告白、洗礼へと導かれていく例が多いです。

「先生と一緒に、主の日の礼拝に出よう」
これを教会学校の合い言葉にしたいと、ずっと願っているのですが…。
本とを言うと、主の日の礼拝に一緒に出ることの方が、本来の姿なのですがね。


スマホライフ

友人から聞いた話なのだが、
ある学校で、ちょっとしたことで高校生たちがブーイングを始めたらしい。
ミッションスクールだというのだが、授業中や、学校での礼拝の時間は、スマホ、携帯の電源を切る、という校則があるらしい。
まあ、先生の側としては、授業中などにスマホなどでゲームをしているのは、もってのほか、ということなのだろう。

ところが、とある生徒が、学校からの紹介で、教会を訪ねたところ、礼拝中に、タブレットやスマホを広げている人がいた、というのである。
「教会に来る大人たちは、礼拝中でも、スマホの電源を入れてるじゃないか」というのが、彼らのブーイングの根拠になったというのだ。

はっきり言って、大笑い。

キミの観察力は最低だね。
礼拝に出席している方たちが、スマホでゲームをしていると思ってるのかい?
ときいてみたいものだ。
まあ、大学に行けば、学部によっては、それぞれがタブレットを持って、授業に参加し、教授からあらかじめメールで送られたり、研究室のHPからダウロードした資料を用いて授業をしているところもあるから、授業中でも、電源は切れなくなるよと言いたい。
ただ、教授の目を盗んで、ゲームをしていれば、今度は注意だけではすまされない。

しかし、問題は、考えてみると、結構大きいかも知れない。

近年は、タブレットやスマホが、福祉の現場でも使われるようになっている。
たとえば、弱視の方がテキストを見るときに、字を大きくする。
大型活字本というのもあるが、その文、本自体が大きくなるので持ち運ぶのは不可能。しかし、タブレットは、それを可能にした。

また、耳の聞こえが不自由な方には、音声をテキストにして表示するなどのサポートがつくことがある。
ボランティアが聴きとり、打ち込んだテキストをディスプレーなどに表示しているが、これも、近年、スマホやタブレットに、通信で配信するという方法も出てきた。メリットは、手元でテキストを見ることが出来るので、資料などを見ながら、説明を聞くなどと言うときには、有効らしい。
このシステムが紹介されたときも、「ゲームをしていると間違って解釈されて、冷たい視線を受けた」という、利用者のつぶやきをきいた。

学校の先生と生徒たちは、授業中、公演中等のスマホ等の取り扱いは、「なぜ、電源を切るのか。なぜ、音を出してはいけないのか。」から、考えてルールを作る必要があるだろう。
それを、「スマホの電源は切らなくてはいけません」と言うことだけで云々するのならば、律法主義者的なルールの解釈ではないだろうか。

私たちは、単純に「授業中、公演中のスマホはだめ」とか、物事を一方通行的にみてはいないだろうか。
どうして、そのようなルールが必要なのか。例外はあっていいのか、悪いのか。
一つのルールが作られたら、そのルールの根拠、適応範囲、等、多角的に検証してみる必要があるだろう。

だからさ、これからの社会を背負っていく高校生君たちよ、
世の中をもっと鋭く観察する目と、考察する柔らかい頭を持ってくれ。
そのためには、もっともっと、勉強しないとね。

登山、生きて帰るべし

痛ましい事故が起きてしまった。
そのニュースでワイド番組は、盛り上がっているが、何よりも、愛するものを失った御遺族へとの配慮を、お願いしたい。

そして、私たちがすることは、遭難事故の客観的な分析と、それから学んで、次の事故防止に役立てることだろう。

羊も登山が趣味で、冬山に行ったことも数度ある。
幸いに危ない目に遭ったことはないが、冬山は、夏山とはまるで別物。特に春山登山は、もっと難しいといわれている。
天気が移り変わりやすいし、そのために登山ルートの状況も、あっという間に変わってしまうからだ。

いろいろな番組で、ビーコンが話題になっているけれど、ビーコンを持っていても、雪に埋まった遭難者を早く掘り出すことには、変わりはない。だから、ビーコンは、遭難者捜索のための重要な機器だけれども、決してそれを持っていれば助かるものではないことを、先ず、肝に銘じておくことが必要ではないだろうか。
危険を察知して、回避することが何よりも大切だと思う。

夏山でもそうだけれど、自然相手のスポーツだから、的確な状況判断と、撤退する勇気、退路が断たれているときは、安全を確保してとどまる技術が一番必要だと思う。
近年、山で遭遇するのは、危なっかしいにわか登山者。ポールを振り回したり、道を譲り合わない人々には本当に困るが、それにもまして、雷が鳴っていようとも、「あそこで百名山達成だから」と前進したり、明らかに初心者向きではないところを、テレビ番組等で、さも楽しいそうに登っているのには、困ったものだと思う。

高校生たちが、「こんなに雪が積もっているのに?」と思った感覚は、正しいものだろう。
ベテランであっても過ちは犯す。先生のいうことだからと、従わないで、「おかしい」と思ったら、その意見もちゃんと言うことも、大切だし、そういう声があったら、ベテランはもう一度計画を練り直すものだとも思う。

いずれにしても、本当に残念な事故だ。
雪の山は、夏と違った魅力がある。知識と技術を磨いて、山の楽しさをもっと知ってほしかったと思う。
だからこそ、危険を冒して、ラッセル訓練するよりは、撤退するか、机上訓練、それこそ、雪崩の起きやすい気象条件などについての学びをする方が良かったのではないか。

山が好きならば、山で死ぬな。
自然に対しては、冒険を犯すよりは、小心者であれ。
指導者として立つ先生に、最もこのことを学んでほしい。