2016年12月07日

子どもの力

子供たちが小さかったときに、思いもよらない発見をしたことがあります。
子供たちが、普通にしていることが、じつは、鏡のように親の行動を反映しているということ。
いやはや、まいったなぁ という感じでした。

ママが怪我をしたとき。
「痛いの?痛いの?」
と小さいながらに心配してくれました。
自分がされたときのことを覚えていたんでしょうね。
同じように、風邪で熱を出したときも、額に小さな手を当てて、
真剣な顔。

同じようなことに出会ったママも、少なくないと思います。

そう、子どもはどんな小さくても、家族の一人としての役割を果たそうと、親のまねをするんですね。
確かに、まだまだ、小さくて、未熟で、手助けどころか、足手まといになるとが多いのですが、
その気持ちは否定したくないと思いました。

親が、何かトラブルを抱えてしまったとき。
子どもに心配をかけないようにと、隠してしまうケースがあります。
周りの、大人にも、口裏を合わせることを求めることもあると思います。

周りの大人の様子が、いくら口裏を合わせても、
子どもは、何かある、と本能的にかぎつけてしまうようです。
そして、僕は、家族の一員なのに、なぜ、
自分には秘密にされる必要があるのだろうと
思うようです。

まだ、そのことを言葉で言い表せない小さな子どもの場合、
それが体調の変化や、さまざまな行動に出ることがあるように思うのです。
言葉に言い表すことができる年齢でも、
それを表すことで、かえって親が苦しむのではないかと、
心配する気持ちを自分の中に押し込めて、かえって苦しんでいるケースもあると思います。

ケースバイケースだけれども、子どもも家族の一人。
親が、子どもの重荷を負ってあげようというのと同じほどに、
親の労苦を共に担う気持ちを持っているんじゃないだろうか。

いい、悪い。しては駄目、してもいい。
だけではなくて、子どもの行動の根っこにあるものは何だろうと考えてみれば、
子どもなりの言い分にきっと気づくことができると思います。
彼等は、どんなに未熟でも、一人の人間なのですから。
人を思いやるこころ、考えるこころを、持っているのですから。

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2016年08月17日

神の恵に確信を持て

もう、何年前になるのだろうか。
かつて仕えていた教会に一人のご婦人がいた。
この方は、高齢者マンションにお住まいであった。静かな山の中、緑に囲まれたところにそれはあり、となりに同じ運営団体の経営と思われる保育園があって、子供たちの元気な声をいつも聴くことが出来ると、とても喜んでいらっしゃった。
一つの大きな問題は、そのマンションが教会から、かなり離れたところにあって、礼拝に来るのがなかなか大変だったこと。
それでも、お元気なときは、電車とタクシーを使って、礼拝に出席されていた。
年を経る毎に、だんだんそれが難しくなって、こちらから、そのマンションを訪ねて、小さな礼拝をすることを繰り返していたが、聖餐礼拝には、何とか教会に来られることを続けられた。

いつも、心ひかれたのは、このご夫人が、必ず前の席に座られること。 
しかも、尻込みしている教会の仲良しを連れて、さっさと前方の席にすわって、礼拝の開始を待たれるのである。
強制的な雰囲気はなく、彼女に手を引かれると、だれても、一緒に前方の席に座ってしまうのだった。

「神の御前に進み出る」
ということを、こころにいつも納められていた。

「前方の席から埋めていけば、後方の席には、主が求道者を入れてくださる」
と、かつて言ったことがあるのだが、一笑に伏されてしまった苦い経験がある。
「教会員が前方に座ったぐらいで、求道者が来るならば、苦労はないでしょう。ハハハ。」

座る位置については、わたしの恩師が教えてくださったことで、事実、恩師は、開拓伝道から教会を起こしたが、今では、何十人もの出席者を得る教会になった。もちろん、礼拝出席3人、5人という時代がなかったわけではない。
そんなときに、口癖のように、言ったのは、「伝道は、主と共に行うもの。一人で戦うと思っては駄目よ。だから、確信を持って、おやりなさい」

一笑に伏されて、反論は、いくらでもできたけれども、実のない事なのでやめた。
でも、とても悲しかったのは事実である。
前方に教会員が座ったくらいで、人は集まらない。
苦労をしないで、人を集めようなどとは、思ってもみない。
労苦はつきものなのである。
ただ、はじめから、人が来ない来ないと愚痴をこぼしながら、すったもんだするよりも、
聖霊の助けを求めて、あれこれする方が楽しいではないか。

「この会堂を主の名を求めてくる人たちでいっぱいにしてください」
わたしは、いつもそう祈って礼拝を始める。それは徒労だろうか。

聖書には、楽して結果を得た話は、一つも出てこない。
また、神の名による労苦が無駄になる話も、ひとつも無い。

こうしてわたしは、自分が走ったことが無駄でなく、労苦したことも無駄ではなかったと、キリストの日に誇ることができるでしょう。 (フィリピ2:16)

この世的には、無駄に見えても、信仰者の目には無駄にならないことはたくさんある。
神の名による労苦は、無駄どころか、喜びを伴う労苦である。
この確信を失ったら、おそらく、地上の教会は命を失うのではないか。

喜んで、前方の席に座ったあのご婦人、しかも、必ず、誰かの手を引いて一緒に前に座っていたことを思い出す。
「神の御前に進み出て」
きっと、このご婦人も、誰かの背中を見ながら、信仰の道に導かれたのだろう。
そして思う。
復活の朝には、真っ先に神の御前に進み出て、主を賛美されるのは、確実だと。



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2016年06月26日

成熟した人となる

6月の最後の主日は、神奈川連合長老会の講壇交換日です。
今年は、横浜大岡教会に派遣されました。
最寄り駅、京浜急行の上大岡駅から歩いて17分くらいです。バスも利用可です。
お近くの方は、是非、おたずねください。

詩編 102篇20〜29節
エフェソの信徒への手紙 4章1〜16節
「成熟した人となる」
posted by 羊 at 20:00| Comment(0) | TrackBack(1) | 教会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年05月14日

ルターとボーリング

 先日のことでした。ある分級の部屋から、「悪魔、悪魔・・・」と聞こえてくるので、びっくりして覗いてみると、みんなで楽しくペットボトルボーリングをしているところでした。
 当日の分級案にペットボトルボーリングがあったのです。でも、当日の聖書箇所は、イエスさまが、荒野で悪魔に試みられたときに、それを退けられたというところ。「なんで、ボーリング???」と思って、よくよく分級案を見てみると、こんな内容の事が書いてありました。

今日、私たちが遊んでいるボーリングの原型を作ったのは、宗教改革者のルターだそうです。ピンを悪魔に見立てて倒す遊びは昔からあったそうですが、それを競技の形にしたのが、ルターなんだそうです。そこで、私たちもルターさんに倣って(?)悪魔を退散させましょう。

ということで、「退け、サタン」という題がついていました。
ドイツにちょっといたことがあるのですが、そんな話は初耳です。で、調べてみたのですが、何しろボーリングの紀元は、古く、諸説あるようです。わたしの調べた範囲では、ルターの名前は出てきませんでした。まあ、中世ドイツにおいて、修道院の中でもケーゲルバーン(ドイツではこう言います。ピンの数も9本で、菱形に並べます)は、娯楽として盛んに行われていたようです。そんなこともあるので、ルターが競技の形にした、というのも、嘘ではないかも知れません。


ただ、問題なのは、そこに信仰的な意味があったかどうかです。わたしが思うに、ルターが絡んでいたとしても、単に娯楽の世界であって、信仰的な意味はなかったのではないでしょうか。

まあ、小学生の分級って、いろいろと考えさせられますよね。今の子供たちって、すぐに飽きちゃうから。だから、こういうゲームは確かに盛り上がります。(事実、担当の先生も含めて、かなり、盛り上がっていました)。でも、いつも考えるんですよ。聖書のメッセージと、遊びが乖離していいのかなって。

分級案では、悪魔が誘惑する言葉と、それを退けた主イエスのことばを、それぞれ、ペットボトルに貼り付けて、悪魔のピンを倒したら、得点が倍になり、さらに、その誘惑の言葉を退けた主イエスのことばを当てたら、得点アップというルールになっていましたが、悪魔を退けたのは、ピンを倒したボールじゃないですよね。それに、悪の誘惑と、対になる主イエスのことばを覚えることが、大切なんでしょうか。


もっと伝えなくちゃならない、大事なことがあると思うんですよ。例えば、「人はパンだけで生きるものではない、神の口から出るひとつひとつの言葉で生きる」という言葉一つとっても、本当に、「神の言葉で生きる」って、どういうことなんでしょう。そんな難しいこと、といわれるかも知れませんが、幼稚園の園児だって、先生との対話の中で、いろんなことを言ってくれますよ。そういう会話が必要なんじゃないだろうか。子供たち自身が考えて、それを言葉にしていってみる。イエスさまのお話ってすごいな、もっと聖書のお話を知りたいな、と思わせれば、分級は大成功だと思うのですが。


ゲームも工作も楽しいけれど、その場限りの楽しさで終わってしまったら、たぶん、子供たちは、大人になるに従って、教会から離れるでしょうね。

posted by 羊 at 12:00| 教会学校 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年05月03日

山のマナー

1件もないことを願っていたのだけれど、やはり、連休中の山の事故は起きてしまった。
連休中の3000メートル級は、天候次第では、厳冬期と同じ。
その天候もころころ変わるので、冬山よりも難しいと思うべし、です。

装備の不備、知識の欠如、
いろいろな理由は考えられるのだけれど、
近頃、ちょっと気になるのは、
テレビにしろ雑誌にしろ、登山関係の情報が軽いんじゃないだろうか。

例えば、
「これは、どう見てもエキスパートコースだよね」
という北アルプスのコースを、初心者を引き連れて簡単に登ってしまう。

その影響か、山には入ると、高齢の方たちが軽い装備で登るのに良く出会うのです。
ひやひやものですね。
それから、スマホやタブレットを持っている生でしょうか。
天気図を読まないし、何より一番大事な「観天望気」をしないんですよ。
風や空気、野生動物たちの動きを注意深く観察すれば、
天気が崩れるか、持つか、ピンポイント予報よりも分かるんだけれどな。
で、判断がつかないときは、すぐに非難できない奥には進まないことですよ。

それから、同じく気になるのは、マナー違反。
山の中で、ラジオ付けながら登っているおじいさんがいました。
山道で挨拶交わすのは、登る方からです。
登る方が息切れてるからで、降っている人から「こんにちは」と声かけられても、返答できないときもあるでしょう。坂道出てあったときは、上り優先が原則。ただし、団体で行動しているときは、くだりの人を長いこと待たせない配慮も必要かと。

一番気をつけてほしいのは、低山の場合でも、ポールの扱いです。
羊も使っていますが、使う人が増えましたよね。
山の中では、リュックに指しても良いですが、混雑しているところ、平地に降りてきたら、リュックに刺すのは、違反です。
経験ありませんか。リュックに刺さっているホールにぶつかりそうになって事は。電車やバスの降車時にリュックを背負うときに、後の人にあたりそうになっているのをしょっちゅう見かけます。
「ポールやピッケルは、下界に体に沿わせて、手に持つように」と指導されましたけど。

テレビや雑誌の情報番組では、「楽しい、絶景」しかやらないですよね。
本当に、楽しく登山をするためには、必要な知識、マナーについても、情報を流してほしいです。

何よりも、山の中では、人間もその一部。
自然に対しても、人に対しても、謙虚な気持ちで登りたいです。
事故成しに家に帰ってこそ、登山の成功なのだから。



posted by 羊 at 19:35| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年04月08日

ベビーカー 危機一髪

地下鉄での、あわやの事故。何もなくて、ほんとに良かった。
交通の運営会社には、安全のために、本当に注意してほしいです。

ただ、利用する私たちの側でも、危機回避のための努力をしてみませんか。

ドイツでは、ベビーカーどころか、もっとでかい乳母車まで、電車に乗せることができました。
乗せるときには、ほとんどと言っていいくらい、周りの人が助けてくれました。
(といっても、地方都市での経験なので、都会はどうか知らないよ)
なので、

ベビーカーを押して電車に乗せる

ンじゃなくて、

持ち上げて乗せていた

んです。

重いんですけど、メリットは

  1. 持ち上げることで、扉との間におとなの体も入ります。ということは、ドアが閉まっても、「あっ、挟まってる」と、センサーが反応してくれます。
  2. ドアに挟まれないまでも、ホームと電車の間に隙間がありますよね。結構ここに車輪を取られているのを見る事があります。あるときなんか、それでベビーカーがつんのめって、乗っていた子どもが車内に転落しているのを見たことがあります。車輪を転がして乗せるのは、リスクが大きいです。
  3. ちなみに、ドイツでも、階段式のエスカレーターに、ベビーカーを乗せることは、原則禁止でした。乗せてた人は多かったのですが、どちらかの車輪が宙に浮く状態ですし、これも、乗ったり降りたりするときに、段差に車輪が引っかかってベビーカーがつんのめることが多々あります。乗ってる子どもが転落しようものなら、後から後から、エスカレーターで、人が来るので大変なことのなります。

日に日に、体重の増してくる子どものお出かけには、ベビーカーは欠かせないアイテムだけれど、何よりも、乗ってる子どもの安全を考えましょう。使っている親も、周りにいる人たちも、です。

そうそう、ベビーカーって、子どもの頭の位置が低くなるので、猛暑の時の道路の照り返し、熱もすごいんですよ。

後、歩きたばこ。ちょうど火のついたたばこが、子どもの顔の高さになるんだよね。

上の子が、押したがるのも、要注意。止められないから。

それと、絶対にやめてほしいのは、



子どもを連れているママのスマホ



子どもは、ママに、スマホよりも、自分を見てほしいと思っているよ、きっと。



とにかく、子どもの事故は、みんなで防ごうよ。




posted by 羊 at 16:53| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年03月19日

「あさが来た」O Load!Correct me. は讃美歌!?

朝ドラ「あさが来た」の中で、成澤泉の歌う O Lord! Correct me.  が、何かと話題になっている。
これは成澤泉のモデルとなっている、日本女子大学の創設者、成瀬仁蔵の愛唱歌。
附属校の生徒手帳にさえ、校歌、学生歌と並んで、採譜されているくらいだから、女子大の卒業生ならば
「あれか」と思うはず。

で、改めてインターネットで見ていると、
原曲は、ヘンデル作曲のオペラ「リナルド」のなかのアリア「涙の流れるままに」だと紹介されているものがあり、
これはイタリア語の曲なので、その英訳かと思われている節がある様に思える。

でも、英語の歌詞は,もとのアリアの歌詞とは意味が全然違う。

おお、主よ。私を正しい道に導いてください。
あなたの怒りに内におかないでください。
わたしを、憐れんでください。
そして、私のすべての罪をきよめてください。
わたしを憐れんでください,わたしを憐れんでください。
そして、私のすべての罪をきよめてください。
おお、主よ。私を正しい道に導いてください。
あなたの怒りに内におかないでください。
わたしを、憐れんでください。
ああ、私を悪の道から、完全に洗ってください。
私を、遠ざけないでください。
あなたの御前から、遠ざけないでください。
あなたの聖なる霊を、
あなたの霊を、私から取り上げないでください。
おお、主よ。私を正しい道に導いてください。
あなたの怒りに内におかないでください。
わたしを、憐れんでください。
そして、私のすべての罪をきよめてください。
(かなり意訳の私訳です。)

作詞者J.S.Dwight(1812−1893)は、教会音楽にも造詣の深い牧師であったことを考えると、
ヘンデルの曲にDwightが歌詞を付けて讃美歌にしたのではないかと思う。
現行の日本の讃美歌にも、クラシックの有名な曲に、歌詞を付けて、讃美歌にしているものはたくさんあるから、
当然、起こりうることだろう。
因みに、Dwightは、クリスマスに良く歌われる O Holly Night(さやかに星はきらめき)をフランス語から英訳した人。

成瀬先生は、1890-1894にアメリカに留学し、アンドーバー神学校(新島襄も卒業生)、つづいてクラーク大学で、学んでいるので、
Dwightの業績にも、どこかで触れていたのだろう。
キリスト者であり、伝道者としての経歴を持つ成瀬先生だから、この歌(たぶん、留学時代に聞いた讃美歌)が愛唱歌となったのではないか。(ひつじは、附属高校に入ったときに、この歌を知ったのですが、ずっと讃美歌だと確信していました)

全部の歌詞が知りたい方は、大学のHPを見てください。

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2016年02月10日

私たちの希望

改めて、来週の説教題が張られた看板を見て、「!」

「復活」と書いてある。
もし、教会暦にうるさいキリスト者が見たら、何と思うだろうか。
というのも、今年は、今日、2月10日(水)から受難節が始まるからだ。
今年のイースターは3月27日。それまでの期間、主イエスのみ苦しみを思いながら過ごす期間と言われている。なのに、受難節が始まって最初の主日が「復活」とは。
これには理由がある。今、ルカによる福音書を少しずつ読み進めている。それで、順番に行くと、2月14日(日)は、ルカによる福音書第24章の冒頭、主イエスの復活を記しているところになるのである。
もちろん、考えなかったわけではない。イースターの時まで、別の聖書箇所で説教をすることも可能だった。ただ、いろいろと考え、祈ったあげく、間をおかずに続けて24章のみ言葉を説こうと思ったのである。
こう思ったきっかけは、ずいぶん前からの引っかかりなのだけれど。

ずっと以前のことだが、主イエスの受難というと、「痛い」「苦しい」というイメージと、「私たちの罪」というイメージで、「暗い期間」を過ごすように思っている方がいたからである。イースターの明るさを待ち望むように、受難節を過ごす。確かに、この季節に、飲酒、肉食、その他の趣味さえ差し控えて過ごす人がいないわけではない。でも、「暗さ」はないのではないか。
否、むしろ、主イエスの受難の意味を心に刻むのならば、そこから福音が聞こえてこなければならない。ただ、痛いだけの受難の意味ならば、ただ、苦しいだけの受難の意味ならば、ただ、みずからの罪を思って過ごすだけの受難節ならば、主イエスによって救われた「今」の私は何なのだろう。
私が洗礼を受けた教会では、受難週に、指名された信徒が、朝夕の祈祷会の奨励、司会を担当した。牧師も、信徒の語る奨励に熱心に耳を傾けた。教会に通い始めて半年で受洗してしまった私は、洗礼を受けてからはじめて受難節を過ごした。それだけに、受難週の祈祷会は、とても新鮮だった。何よりも、どの方も、主イエスの十字架の救いをはっきりと証しされていることに、心動かされた。
主イエスの受難が、この私の救いであり、命となったことが、はっきり語られたからである。

こんな事も、受難節に入ってすぐでも、ルカによる福音書第24章を語ろうという決心を促したんだと思う。
主イエスの十字架を、真の命の十字架を、しっかりと指し示したい。
posted by 羊 at 19:57| Comment(0) | TrackBack(0) | ひつじの願い | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年01月08日

皆勤賞

毎年、年末になると教会学校の皆勤賞のお知らせが来ます。
申し込んでおくと、賞状とその年のバッジが送られてきます。
子供たちは、ある意味、よろこんでいるのですが、羊はいろいろと考えしまいます。

申命記に、次のような言葉があります。

申命記 第6章 7節
子供たちに繰り返し教え、家に座っているときも道を歩くときも、寝ているときも起きているときも、これを語り聞かせなさい。

いつもみ言葉を語りきかせるのは、子供たちが、神の御言葉によって生活し、生きるようになるためです。
だから、教会学校の働きも、ここにあると言えるでしょう。
つまり、
聖書の解説や教理の解説なんかをしているんじゃなくて、神の言葉を聴くことが、どんなに幸せなことで、また、大切なことかを、身をもって示すこと、語りきかせること、なんです。

子供たちが、教会に来て、本当にここに大切なことがあるんだ、と、実感できること。

で、先の皆勤賞なのですが、これはいわば、毎週日曜日に教会に来ましたね、というご褒美です。
教会に来るのは、神様の招きに応えてくるのであって、自分が来たいから来る、来たくないけれども、お母さんに連れられてきたから来る、というものではないはずです。
子供たちを教会に連れてこられるお父さん、お母さんも、ただ、義務で連れてきているのではないと思うのです。
教会と同じように、子供たちが神様のみ言葉の光の中で成長し、信仰を持って生きることを望んでいるからこそ、毎週日曜日に神様の前で礼拝するのではないでしょうか。
神様のお招きにあなたは良く、応えて教会に来ました。ご褒美をあげましょう。で、良いのかな、とも思うのです。

もちろん、子供たちの今の現状も過酷です。

中学生以上になると、部活や塾などをやりくりしてくる子供たちもいるので、確かに、教会に来るのは、努力のいることかもしれません。
でも、あなたは努力しましたから、ご褒美をあげましょう。というのは、信仰の筋道とは、一寸違うのではないでしょうか。
なぜならば、ご褒美に象徴されるのは、「私の努力」だからです。
やりくりしながら来ることができたのは、「神様の導きと恵み」ではないのかな。

クリスマスに教会に行けば、お菓子がもらえるよ。
遊んでくれる人がいるよ。

もちろん、そういう手で、教会に子供たちを引っ張ってくるのも、「あり」だと思います。
でも、一言添えてほしいのです。

教会に行って得られるお菓子も、友達も、みんな神さまの恵だよ。と

でなければ、お菓子や友人、ご褒美で、子供たちをつっていることになりませんか。
どんなに小さな子どもでも、動物じゃないんです。
神様から、体と心と命をいただいた、一人の人間なのです。
一人一人が、神様からのお招きを受けている一人の人間なのです。

と、羊は考えるのですが…
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2015年11月26日

救い主が来る

いよいよ、今年もアドヴェントの季節を迎えなます。
11月29日が第1アドヴェント。
クリスマスの飾りを作ったり、クッキーを焼き始めたりと。

この時期、いつも思うのは、
教会でのクリスマスを単なるお祝い、お祭りにしたくないと言うことです。

ドイツで暮らしていたときに、クリスマスのこども番組の中で、しばしば聞いたのは、
「クリスマスは一人で過ごす時じゃないよ」という言葉でした。

「クリボッチ」なんて言葉がありますが、そう、一人で過ごす時じゃないんです。
何故かと言えば、悲しんでいる人、弱っている人、つらい思いをしている私どものところに、
神の子が来てくださったからです。

だから、主イエスが生まれたときに、飼い葉桶の周りに、いろんな人が集まりました。
救い主の周りに、色々な人が集められたんですよ。

去年はいっしょに讃美歌を歌ったけど、今年は、その最愛の人を失って、
一人で讃美歌を歌わなきゃならない、と思っている人もあるかも知れません。
いいえ、信仰の仲間たちが、そして、天使たちが、いっしょにクリスマスの歌を歌うのですよ。
だから、涙を流しても、その歌の中に、あなたがいてほしいと、主イエスは願っているのです。

だからこそ、お祭り騒ぎにしたくない。
ただの楽しいクリスマスにしたくない。
本当の慰めと喜びのあふれるところを、指し示したいと願っているのです。

2015Weihnacht.jpg


posted by 羊 at 15:52| Comment(0) | TrackBack(0) | ひつじの願い | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする